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題名は『ひまわり』。けれど、読み始めると舞台はウェールズの丘で、少年二人が遊んでいます。あれ、花はどこへ行ったの?
この短篇でひまわりが現れるのは、終わりに近いところ。日本で見た花をきっかけに、語り手は約四十年前の歌声と、友人ロバートの姿を思い出します。
だから、花の描写を探すだけで先へ急がないでね。その花が呼び戻した一日の中で、「私」が歌い手をどう見て、どう心を動かされたか。そこを追うと、題名と最後の友人の姿がつながります。
以下は結末に触れます。Project Gutenberg公開の英語原文の「HI-MAWARI」を、冒頭から末尾まで読んだ考察です。ドラマの場面や出演者の演技を確認した感想ではありません。
絵本の吟遊詩人を期待したら、現れた男は違っていた
作中の「私」は七歳を少し過ぎた少年。八歳のロバートを、賢くて尊敬する相手として見ています。二人は、家の裏の木が茂る丘で「妖精の輪」を探していました。
そこへ、ハープを弾く男が家にやってきます。ハープは、張った弦を指で弾く楽器です。
少年が思い描いていたのは、絵本に出るような年老いた吟遊詩人。ところが、現れたのは身なりの整わない、たくましい旅の男でした。吟遊詩人は、詩や歌を人に聞かせて各地を巡る人のことです。
ここで語り手が見ているのは、まだ歌の中身ではありません。姿と態度から、先に失望しているんですね。
さらに男が歌い始めると、「私」は反発します。その歌を、少年にとって大切な人の声で聞いたことがあったから。大切にしていた歌を、この男に歌われるのが嫌だ、という気持ちが書かれています。
この場面では、その大切な人の名前や続き柄は明かされません。まずは、少年がすでにその歌を特別に受け取っていた、と押さえておこう。初めて聞く歌だった場合とは、男の声を受け止める出発点が違うからです。
歌に心を動かされても、反発が消えるわけではない
ところが、男の声が途中から変わります。最初に荒々しく聞こえた声が、柔らかさと豊かな響きを帯びていく。「私」は、それまでに経験したことのないほど心を動かされます。
ここ、歌のうまさに気付いて、すっかり男を好きになった話にはならないんです。
感動しているのに、まだ怖い。自分をこれほど動かす男への反発もある。少年は、怒りと恥ずかしさまで感じています。泣いたことをロバートに指摘されると、いっそう戸惑う。
歌の力を認めることと、相手への抵抗がなくなることが、同時には起きていないんだね。この揺れを残して読むと、単に「意外な人が上手に歌った」というまとめから、もう一歩先へ進めます。
男が去って丘へ戻ったあとも、二人は元どおりに遊べません。歌に動かされたままで、男を恐れる想像も続きます。
少年たちの言葉には、男の出自を決め付けて恐れる偏見もあります。それを、男が実際に悪人や魔法使いだった証拠として受け取らず、二人がどう見ていたかという作中の視点と分けて読みましょう。
最後の花は、歌い手だけでなく隣の友人も呼び戻す
終盤では、角括弧に入った語りへ切り替わります。語り手は、前日に高田という村の近くで見たひまわりについて述べます。
花の名から、約四十年の隔たりを越えて、あの旅の男の歌声が戻ってくる。歌の中にもひまわりが出てきたので、ここで題名と昔の一日がつながります。
でも、よみがえるのは歌い手だけではありません。木漏れ日のある遠い丘と、隣に立つロバートの姿も現れます。
ここで、もう一度冒頭へ戻ってみてほしいんです。最初から「私」一人でなく、ロバートと二人で遊んでいました。歌い手が去ったあとも、一緒に丘へ戻っていた。その隣の友人が、最後の回想にも戻ってくるんですね。
末尾には、現実のロバートを失ったことを示す言葉が添えられます。ただ、この短篇だけで、その経緯が詳しく語られるわけではありません。どこで何があったのかを、場面として作り足さずに読みたいところです。
日本語の本で読み直すなら、池田雅之編訳『怪談 決定版』の出版社公開目次に「ひまわり―ロバートの思い出」が収録されていると確認できます。
書籍を識別する番号「ISBN」は9784044008567。ここでの考察は英語原文に基づき、池田訳の表現を読み比べたものではありません。手持ちの短篇集に『ひまわり』が入っていれば、まずその一篇を開いてみてね。
花が呼び戻した歌声の先に、最後に隣へ戻ってきた人もいる。あの一日にいたのは誰だったか。そこまで戻ると、『ひまわり』という短い題名から、歌声と友人のいる丘へ道が続いていきます。