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自分だけでなく、隣にいる人にも同じ姿が見えている。それなら、見間違いではないはず……?
小泉八雲の『常識』では、その「みんなに見える」が、逆に疑うきっかけになります。
猟師が疑ったのは、修行を重ねた僧だけでなく、修行者ではない自分たちにも、同じ仏の姿が見えること。 何も見ていない人が横から否定する話とは、そこが違うんですね。
ここから結末に触れます。英語の作品集『Kottō(骨董)』に収められた「Common Sense」の本文をもとに、話の順序を追ってみよう。
僧は、修行と夜の来訪を結び付けて考えていた
京都近くの愛宕山で暮らす僧は、周囲の人から米や野菜を届けてもらいながら、仏教の教えを記した経典の勉強や、修行を続けています。そこへ訪ねてきた猟師に、夜ごと普賢菩薩が現れると話します。普賢菩薩は、この物語で僧が拝んでいる菩薩の名前です。菩薩は、仏教で悟りを求め、人々を救おうとする存在を指します。
僧は、長年の修行の功徳によるのかもしれない、と考えています。功徳は、この場面では修行などによって得る善い働きや恵みを指します。ただし、本文の僧は、その理由を断言しているわけではありません。
一方、猟師は、その場にいた寺の少年にも話を聞きます。少年も姿を見ていると知って、ますます疑いを深める。
えっ、証人が増えたのに、疑うほうへ進むんだ!
猟師は、少年がうそをついていると決め付けてはいません。見えたという報告を認めたうえで、それが本当に僧の考えている存在なのかを疑っている。 この順番が、この短い話の読みどころです。
同じ光を見た猟師が、僧と違う判断をする
夜、僧と少年と猟師が待っていると、白い光が近づいてきます。やがて、六本の牙がある白い象に乗った姿が現れます。僧と少年は礼拝しますが、猟師は弓で矢を放ちます。すると光は消え、辺りは再び暗くなる。
僧が取り乱す一方で、猟師は自分の考えを説明します。
もし僧の長い修行によって仏の姿を見られたのなら、なぜ狩りを生業とする自分にも、同じものが見えたのか。生き物を殺す仕事をしている自分まで見えることに、説明がつかないと考えたのです。
これは、作品の中で猟師が示す判断の筋道です。仏教全体について「誰に何が見える」と一律に決める説明としては読まないでください。
翌朝、二人が血の跡をたどると、猟師の矢が刺さった獣の死体が見つかります。語り手は、学識のある僧がだまされ、猟師の常識が幻を見抜いた、と結びます。
Project Gutenbergで『Kottō』の「Common Sense」を読む
正体を知ったあと、僧の最初の言葉へ戻ってみて
結末だけなら、動物が化けていた怪談です。でも、もう一度冒頭へ戻ると、僧の「自分が修行してきたこと」と「見えたものの正体」が、どうつながっていたかに目が向きます。
読むときのメモを二列にするなら、「三人に見えたこと」と「僧が理由として考えたこと」。分けて書くと、三人が同じ姿を見た事実だけでは、その正体や現れた理由まで同じように説明できない、と気づけます。ここは本文を読んでの解釈です。
日本語の本でほかの話とも並べたいなら、池田雅之さん編訳の『怪談 決定版』という選択肢があります。KADOKAWAの公開目次では、『骨董』からの収録作に「常識」が挙がっています。
今回読んだのは英語の公開本文です。この本の日本語訳の言葉づかいを実読・評価した紹介ではありません。同じ題の本が多いので、編訳者と収録目次を見て選んでね。
怖い姿が出たかどうか、その次に、誰がどう受け止めたか。そこまで追うと、『常識』は正体当てだけで終わらない一篇になります。結末のあとに、冒頭をもう一度のぞいてみてください。